ご質問にある**「民主主義と平等の価値観」と「皇室のルール」の矛盾に対する感覚は、日本国民の中に「ない」わけではありませんが、ヨーロッパほど「深刻な人権問題」として捉えられていない**のが現状です。
なぜ、現代の日本人がこの「明らかな矛盾」を不思議と受け入れているのか(あるいは見て見ぬふりをしているのか)。そこには、日本人特有の**「皇室を『聖域(例外)』とみなす心理」**が深く関係しています。
専門的な視点から、その心理構造を3つのポイントで解説します。
1. 「伝統芸能」と同じ「文化の例外」という感覚
多くの日本人は、皇室の伝統を**「政治制度」というよりは、「歌舞伎」や「大相撲」に近い「伝統文化」**として捉えている側面があります。
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歌舞伎・大相撲の例:
現代社会で「男しか土俵に上がれない」「男しか役者になれない」というのは明らかな差別ですが、日本人はこれを「差別」ではなく**「様式美(スタイル)」や「伝統の型」**として許容しています。
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皇室への適用:
同様に、皇位継承についても「一般社会では男女平等であるべきだが、皇室という『古い儀式の家』だけは、昔のままのスタイル(男系男子)でいいのではないか」という、**「文化的な聖域」**として別枠で考える心理が働いています。
つまり、「公務員の採用試験で女性を落とすのは許されないが、神主の家系のルールなら仕方ない」というような**「公と私の使い分け」**が、国民の意識の中に無意識に行われています。
2. 天皇にはもともと「人権がない」という認識
そもそも、天皇や皇族の方々は、私たち国民が持っている**「基本的人権」の多くを制限されています。**
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制限されている権利: 選挙権がない、信教の自由がない(神道儀式が義務)、職業選択の自由がない、居住移転の自由がない、言論の自由が事実上ない、など。
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国民の心理:
国民は心のどこかで、**「天皇陛下は、そもそも『人間としての自由』を犠牲にして国に尽くしてくださっている特別な存在だ」と認識しています。
そのため、「男女平等という権利」が皇室に適用されなくても、「そもそも他の人権もないのだから、そこだけ平等を求めても仕方がない(そういう特殊な身分なのだ)」**という諦めにも似た受容感があります。
ヨーロッパの王室が「開かれた王室」「市民に近い王室(自転車で買い物に行くなど)」を目指し、市民と同じ権利と義務に近づいていったのに対し、日本の皇室は依然として**「人権を超越した存在」**として扱われている違いがここにあります。
3. 「権力」ではなく「祈り」の存在だから
ヨーロッパの王室には「支配者(権力者)」としての歴史が色濃く残っています。権力者が女性を排除することは、民主主義において許されない「不正義」です。
しかし、日本の天皇は歴史的に長く**「祭祀王(祈る人)」**でした。
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日本人の感覚では、天皇は「政治的権力者」ではなく、**「国家の安寧を祈る宗教的な象徴」**です。
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宗教的な儀式において「男性が執り行う」「女性が執り行う」という性別による役割分担があっても、それは**「教義(宗教上のルール)」**とみなされ、「民主主義の矛盾」とは直結しにくいのです。
しかし、空気は変わりつつあります
上記のような理由で、長らく日本人はこの矛盾を「例外」として飲み込んできましたが、愛子さまの成人前後から、国民の感覚は劇的に変化しています。
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「かわいそうだ」という共感:
理屈(民主主義)としての矛盾よりも、**「あんなに優秀で人柄も素晴らしい愛子さまが、ただ『女性である』という理由だけで天皇になれないのは、人として理不尽ではないか」**という、情緒的・感情的な面での疑問を持つ国民が急増しています。
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80%の賛成:
世論調査で「女性・女系天皇容認」が8割に達している事実は、国民が**「伝統(男系維持)」よりも「現代的な公平さ(愛子さま即位)」の方を、新しい日本の価値観として選び始めている**証拠とも言えます。
結論
日本国民には、「民主主義の原則に反するからけしからん!」という論理的な怒りは薄いですが、「同じ人間として、今の時代にそれはおかしいのではないか」という素朴な違和感は、今まさに広がりつつあると言えます。
この「素朴な違和感」が、今後政治を動かすほどの「うねり」になるかどうかが、日本の皇室の未来を左右することになります。
