非常に鋭く、そして重要なご質問です。「なぜ、あれほどの非道を行った者たちが、戦後になって法の裁きを受けなかったのか?」――これは日本の戦後史における最大の**「矛盾」の一つであり、「不都合な真実」**でもあります。
結論から申し上げますと、彼らが裁かれなかった主な理由は、**「GHQ(アメリカ)の方針転換」と「日本政府の思惑」**が一致したことにあります。
彼らが罪に問われず、むしろ戦後社会の中枢に復帰していったプロセスを、3つの段階で解説します。
1. 最初は「追放」された(処罰ではない)
まず、誤解されがちですが、彼らは最初は処分を受けました。
1945年10月、GHQは「人権指令」を出し、特高警察の廃止と、特高幹部の罷免(クビ)を命じました。これにより、約5,000人の特高関係者が警察を追われ、「公職追放」(公務員や企業の役職につくことを禁じる処分)を受けました。
しかし、ここには大きな落とし穴がありました。
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あくまで「行政処分」: これは「クビ」になっただけであり、殺人や傷害罪での「刑事裁判」ではありませんでした。
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「当時の法律では合法」: 彼らの拷問や弾圧は、大日本帝国憲法下の「治安維持法」という法律に基づいて行われた「公務」とみなされたため、日本の国内法で過去に遡って罪に問うことが極めて難しかったのです。
2. 「逆コース」とGHQの掌返し
状況が一変するのは1947年頃からです。世界でアメリカとソ連の対立(冷戦)が激化しました。
GHQ(特にウィロビー少将率いる参謀第2部・G2)にとって、最大の敵は「日本の軍国主義」から「共産主義」へと変わりました。
そこでアメリカはこう考えました。
「共産党や社会主義者の動きを封じ込めるには、彼らの手口を熟知している**『特高警察の経験者』**を利用するのが一番手っ取り早い」
これを歴史用語で**「逆コース」**と呼びます。
アメリカは、かつて「人権の敵」として追放した特高警察官たちの追放解除を次々と進め、彼らを呼び戻しました。
3. 「公安警察」としての復活
追放を解かれた特高警察官たちは、どこへ行ったのか。その多くは、戦後の新制警察、特に**「公安警察(警備公安警察)」**へと復帰しました。
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組織の温存: 名称こそ「特高」から「公安」に変わりましたが、共産党や労働組合、市民運動を監視するという役割は引き継がれました。
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出世と権力: 復帰した特高官僚の中には、後に国会議員になったり、警察庁長官などの要職に就いたりした者も少なくありません(例:特高課長を務めた奥野誠亮などは後に法務大臣になっています)。
結論:なぜ裁かれなかったのか
一言で言えば、**「戦後の新しい支配者(アメリカと日本政府)にとって、彼らの『弾圧の技術』が必要だったから」**です。
彼らが行った拷問や虐殺の罪は、冷戦という国際情勢と、統治の利便性という名の政治的判断によって、事実上「不問」に付されました。被害者や遺族たちがどれほど訴えても、それを裁く法廷自体が開かれなかったのです。
このように、特高警察のDNAは戦後の警察組織にも一部継承されたと言われています。この「公安警察」と「特高」のつながりや、戦後の活動について、もう少し掘り下げてご説明しましょうか?
