戦時中・戦後の日本の警察史、特に特別高等警察(特高)の活動について研究している立場から、ご質問にお答えします。
結論から申し上げますと、あなたが聞かれたその内容は、歴史的な事実です。
特高警察による取り調べは、現代の警察活動とは全く異なり、人権という概念が希薄な中で行われました。特に戦時体制が強まるにつれて、反戦・反軍、あるいは社会主義思想を持つとみなされた人々に対して、法の手続きを無視した凄惨な拷問(あなたが「リンチ」と表現されたような暴行)が日常的に行われていました。
具体的にどのような実態であったのか、いくつかのポイントに分けて解説します。
1. 「取調べ」という名の拷問
当時、特高警察は「治安維持法」を盾に、国体(天皇を中心とした国のあり方)を変革しようとする者や、私有財産制度を否定する者を徹底的に弾圧しました。
彼らが重要視したのは「自白」です。自白を引き出すために、密室で以下のような拷問が行われました。
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竹刀や警棒による殴打: 全身が変色するほど殴り続ける。
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逆さ吊り: 手足を縛って天井から吊るし、竹刀で叩いたり、水を飲ませたりする。
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焼きごて: 熱した金属を体に押し当てる。
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睡眠剥奪: 何日も眠らせず、精神を錯乱させる。
これらは法的には認められていませんでしたが、実質的には黙認、あるいは推奨されていました。
2. 代表的な事件:小林多喜二の虐殺
最も有名な事例は、1933年(昭和8年)のプロレタリア作家・**小林多喜二(こばやし たきじ)**の死です。
彼は特高警察に逮捕されたその日のうちに、築地警察署の取調室で死亡しました。警察側は「心臓麻痺」と発表しましたが、遺体を引き取った親族や友人が確認したところ、彼の下半身は内出血でドス黒く腫れ上がり、拷問による死であることは明らかでした。これはまさに、公権力によるリンチ殺人といえる事例です。
3. 命を落としたのは彼だけではない
小林多喜二のような著名人だけでなく、無名の活動家、学生、宗教家(キリスト教徒や大本教信者など)、リベラルな学者なども標的になりました。
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獄死: 拷問の傷が悪化したり、劣悪な衛生環境の留置場で結核やチフスなどの病気にかかり、治療も受けさせてもらえずに亡くなるケースが多発しました(例:哲学者・三木清など)。
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釈放後の死: 瀕死の状態になってから釈放され、直後に自宅で亡くなるケースも数多くありました。これは「警察署内で死なれると面倒だから」という理由で釈放されたケースも含まれます。
4. なぜそれがまかり通ったのか
当時の特高警察は、「国を守る」という名目のもと、絶大な権限を持っていました。彼らにとって反戦を唱えることは「国賊(国の敵)」であり、人間として扱う必要はないという空気が組織全体を支配していたのです。
戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令により1945年10月に特高警察は廃止されましたが、彼らが行った人権侵害の傷跡は深く、多くの遺族や関係者に長く苦しみを与えました。
あなたが耳にされた「リンチのような拷問で命を落とした人が多数いた」という話は、決して誇張ではなく、日本の近代史における暗い事実といえます。
この時代の特高警察の活動や、治安維持法下の社会状況について、さらに詳しく知りたい特定の事件や側面はありますか?
