日本では刑事裁判を専門とする弁護士が少ないと聞きます。また、弁護士でさえ「警察の調べていることに間違いは無い」という人もいるそうです。なぜこういうことになっているのでしょうか?

ご指摘の通りです。日本の法曹界(弁護士・検察官・裁判官)において、「刑事弁護を専門とする弁護士」は絶滅危惧種のように少ないのが現実です。また、本来は依頼人を守るべき弁護士が「警察の言う通りにした方がいい」と説得に回るケースも少なくありません。

なぜ、権力と戦うはずの弁護士までもが、警察・検察の補完勢力のような状態になってしまっているのか。その背景には、**「経済的な構造」「教育システム」「諦めの文化」**という3つの大きな壁があります。

 

1. 「99.9%有罪」が生む徒労感と経済的リスク

 

最大の理由は、**「刑事裁判はビジネスとしても、職業的なやりがいとしても、あまりに分が悪い」**という冷徹な現実です。

  • 勝てない戦い:

    起訴されたら99.9%有罪になる国で、「無罪」を勝ち取るのは奇跡に近いです。どれほど熱心に弁護しても、裁判官は検察の証拠(自白調書)を採用します。結果が出せない仕事に一生を捧げるには、並大抵ではない精神力が必要です。

  • 儲からない:

    日本の弁護士の多くは、企業法務や民事事件(離婚、相続、交通事故など)で生計を立てています。刑事事件、特に「無罪」を主張して徹底的に争う事件は、膨大な時間と手間がかかる割に、報酬は決して多くありません。

  • 「国選弁護人」の限界:

    お金のない被疑者につく「国選弁護人」は、国から報酬が出ますが、非常に低額です。そのため、「手間をかけずに、さっさと結審させて終わらせたい」と考える弁護士が出てきてしまいます(これを「手抜き弁護」と揶揄することもあります)。

 

2. 「ヤメ検」弁護士の存在

 

弁護士の中には、**元検察官(ヤメ検)**や元裁判官が多数含まれています。彼らの存在が、「警察は間違わない」という空気を醸成する一因となっています。

  • 「あちら側」の論理:

    昨日まで「被疑者を追い込む側」にいた人間が、今日から「守る側」になっても、マインドセットはそう簡単に変わりません。彼らは警察や検察の手の内を知っている分、**「抵抗しても無駄だ。早く自白して反省の態度を見せたほうが、刑が軽くなる(執行猶予がつく)」**という「実利」を優先したアドバイスをしがちです。

  • 古巣への遠慮:

    元同僚である検察官や、顔見知りの警察官に対して、厳しく対決姿勢を取ることを避ける傾向もあります。

 

3. 法曹教育が生む「官尊民卑」

 

日本の法律家になるための教育システム(司法研修所)自体が、**「国家権力(裁判官・検察官)への憧れ」**を植え付ける構造になっています。

  • 司法修習の序列:

    司法試験に合格した後の研修では、成績優秀者は裁判官や検察官に任官し、そうでない者が弁護士になるという、暗黙の「序列」意識が長く存在しました(現在は多少変化していますが、根強い意識です)。

  • 同じ釜の飯:

    裁判官、検察官、弁護士が同じ場所で教育を受けるため、「法曹三者(ほうそうさんしゃ)」という仲間意識が生まれます。これは良い面もありますが、裏を返せば**「体制側と喧嘩をするより、協調したほうがスムーズ」**という馴れ合いを生む温床にもなっています。

 

4. 人質司法が生む「弁護士の絶望」

 

そして最も深刻なのが、先ほど話題に出た「人質司法」が、弁護士の心をも折ってしまうことです。

  • 依頼人を救うための「悪魔の取引」:

    被疑者が「やっていない」と言っていても、否認し続ければ何ヶ月も留置場から出られません。依頼人が精神的に限界を迎え、「嘘でもいいから認めて早く家に帰りたい」と泣きつかれた時、弁護士はどうするか。

    多くの弁護士は、**「無罪を勝ち取る(正義)」よりも「早く外に出してあげる(人道)」**を選び、「警察の調書にサインして、早く終わらせよう」と説得することになります。

 

結論

 

弁護士が「警察に間違いはない」と言ってしまうのは、彼らが無能だからというよりは、**「日本の司法システムの中で警察と戦うことが、あまりに無謀でコストが高すぎる」**ことを経験的に知っているからです。

その結果、刑事裁判は「真実を明らかにする場」ではなく、**「警察が作ったシナリオを、裁判官と弁護士が一緒になって追認し、シャンシャンと手打ちにする儀式」**になり下がっている――これが、特高警察の時代から続く「お上(おかみ)には逆らえない」という絶望的な構造の正体です。