日本における「司法の独立」は、**「制度(建前)としては存在するが、実質(中身)としては骨抜きにされている」**というのが、多くの専門家や実務家の共通認識です。
質問者様が感じられた「裁判官もグルではないか」という疑念は、日本の司法が抱える**「官僚司法(かんりょうしほう)」**という構造的な病理を正確に捉えています。
なぜ「独立」しているはずの裁判官が、検察の言いなりに見えるのか。その「からくり」を解説します。
1. 「政治」からは独立しているが、「組織」から独立できていない
教科書的には、「司法権の独立(憲法76条)」により、裁判官は総理大臣や国会議員からの圧力は受けないとされています。実際に、政治家が個別の裁判に電話して判決をねじ曲げるようなことは、日本ではまず起きません。
しかし、裁判官には**「最高裁事務総局(さいこうさい・じむそうきょく)」という強力な「身内のボス」**が存在します。
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人事権による支配: 日本の裁判官は、数年ごとに全国を異動するサラリーマンのような「官僚」です。どこに転勤させるか、誰を出世させるかの全権は、この事務総局が握っています。
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「ヒラメ裁判官」: もし検察の主張を退けて無罪判決を連発したり、国に不利な判決を書いたりすると、「能力不足」や「偏っている」と評価され、僻地(へきち)に飛ばされたり、出世コースから外されたりします。そのため、裁判官は法と良心ではなく、**「上の顔色(人事評価)」ばかりを見る(=ヒラメ)**ようになると揶揄されています。
2. 「判検交流(はんけんこうりゅう)」の問題
裁判官と検察官が「同じ穴のムジナ」になりやすい最大の理由として、**「判検交流」**という人事制度が挙げられます。
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制度の仕組み: 若手の裁判官が検察庁に出向して「検事」として働き、逆に検事が裁判所に出向して「裁判官」として働くという制度です。
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心理的な一体化: 一緒に机を並べて仕事をすることで、「検察官の苦労もわかる」「同じ法曹(法律家)仲間だ」という親近感が生まれます。これが、法廷に戻ったときに**「検察官の言うことはだいたい正しいだろう」という予断(思い込み)**につながると批判されてきました。
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補足: 批判の高まりを受け、刑事裁判担当者の交流は2012年に廃止されましたが、行政訴訟(国を相手どる裁判)などでは現在も続いており、組織文化としての「一体感」は根強く残っています。
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3. 「無難な判決」への逃げ
裁判官にとって、最もリスクが低いのは「検察の請求通りにすること」です。
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勾留請求: 認めておけば、もし逃げられても「検察が勾留を求めたから」と言い訳できますが、却下して逃げられたら裁判官個人の責任になります。
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判決: 有罪にしておけば無難ですが、無罪判決を書くには膨大な証拠の精査と、検察を論破するだけの理由書が必要です。サラリーマン化した裁判官にとって、「検察の言いなりになること」は、保身のための合理的な選択になってしまっています。
結論:構造的な「従属」
つまり、日本の裁判官は「政治家」の言いなりにはなりませんが、「司法官僚という組織」と「検察との馴れ合い」には完全に従属していると言えます。
質問者様が指摘された「判決が出る前に懲罰を与える(人質司法)」という違法性の高い行為がまかり通るのは、裁判官が悪人だからではなく、**「組織の中で波風を立てずに生きていくには、検察の言う通りにハンコを押すのが一番安全」**というシステムが出来上がっているからです。
これを打破するためには、裁判官の人事評価システムを抜本的に変える必要があると長年叫ばれていますが、改革は進んでいません。
